浦賀ドックの底部からの眺め
2022/8/7
地域金融機関の歴史研究を進めていると、自ずとその土地ごとの産業の歴史と向き合うこととなる。
「横須賀市の指定金融機関はなぜりそな銀行か?」を調べる流れで、横須賀の歴史にも触れる機会が増えた。
横須賀で思い浮かぶのが、三笠、ドブ板通り、スカジャン、ネイビーバーガー、横須賀海軍カレーなど。多摩地域にはない情緒を味わえる観光地のひとつである。
今回、浦賀ドックの見学ができることを知り、参加することにした。2022年4月から開始した浦賀レンガドックの個人向けガイドツアーだ。NPO法人よこすかシティガイド協会の専任ガイドが約1時間半案内してくれた。
京急線浦賀駅を降りると、目の前に浦賀の歴史が描かれた白い塀。その塀の向こうにきっとドックがあるのだろう。しかし、駅前からは見ることができない。集合場所は正門前。それがどこなのかがよく分からないままに塀に沿って歩くこと10分。ガイドらしき先輩方が待っていた。
この日の参加者は15名ほどで、2班に分かれてツアーがスタートした。
浦賀港に臨むその敷地の中には工場らしい建物はなく、アスファルトに覆われた更地が広がっていた。ここは、2003年にその役割を終えた、住友重機械工業株式会社追浜造船所浦賀工場の跡地である。
ガイドの説明は、浦賀の歴史から始まる。江戸時代には干鰯の中継地として賑わったということだ。
1853年にこの浦賀港沖にペリーが来航した。その際、江戸幕府浦賀奉行与力の中島三郎助が立場を超えて折衝した。黒船に最初に乗船した日本人として知られるそうだが、不勉強で記憶になかった。
ペリー来航を機に、開国し、この浦賀の地に日本初のドライドックが建設されたことは、この中島三郎助の功労あってのことだと言うことをガイドさんは強調されていた。
さて、いよいよドックを見学。
おお~。
ほかの参加者からも声が上がる。
地中深く掘り下げられた巨大な空間は、ローマのコロッセオを思わせる。現存するレンガ造りのドライドックとしては世界で4カ所(5基)、日本では浦賀だけだそう。いよいよドックの底に。一段一段降りるごとに、見上げる景色へと変っていく。
全長約180m、幅25m、深さ10m。約250万個のレンガがフランス積み。周囲に観客席のような「犬走り」という段が5段。
底部に到着すると、ドックの景色は青空と一体化し、自分がこびとになったような気分だ。
底には、男性の背丈よりも高い「盤木」が一直線に並んでいる。船底を支えるための可動式の台で、現在配置されているのは最後の修理となった東京湾フェリー「しらはま丸」のものとのこと。
ドックと海とを隔てるドックゲートの上も渡った。右手が海。左手がドック。ここのゲートは倒して浸水させるタイプらしい。見学の最後に、ガイドの方から訪ねられた。歴史の遺産として役目を変えていくこの場所の未来をどのようにしたらよいか、アイデア募集中とのことだ。
ここまで見学してみると、ものづくりにかける人々の知恵とエネルギーを実感することができた。
改めてこの造船所の歴史を調べてみた。
1896年浦賀船渠株式会社創設、1899年1号ドック(浦賀ドック)完成、1924年生還連絡船「翔鳳丸」竣工、1962年玉島デイゼル工業と合併、浦賀重工業株式会社に社名変更。1969年、住友機械皇后と浦賀重工業が合併。住友重機械工業株式会社浦賀造船所に。機械・造船メーカーとなる。2003年、住友重機械工業より分社化され、住友重機械マリンエンジニアリング株式会社に。2021年、浦賀ドックは住友重機械工業により横須賀市に寄贈された。
造船所の歴史を調べてみた。
1896年浦賀船渠株式会社創設、1899年1号ドック(浦賀ドック)完成、1924年生還連絡船「翔鳳丸」竣工、1962年玉島デイゼル工業と合併、浦賀重工業株式会社に社名変更。1969年、住友機械皇后と浦賀重工業が合併。住友重機械工業株式会社浦賀造船所に。機械・造船メーカーとなる。2003年、住友重機械工業より分社化され、住友重機械マリンエンジニアリング株式会社に。2021年、浦賀ドックは住友重機械工業により横須賀市に寄贈。
見学の最後に、ガイドの方から訪ねられた。歴史の遺産として役目を変えていくこの場所の未来をどのようにしたらよいか、アイデア募集中らしい 現役のさまざまな事業も、時代時代でその役割を考えながら未来を見据えて稼働していかなければならい、改めてそう思った。(K)
“浦賀ドックの底部からの眺め” に対して1件のコメントがあります。
コメントは受け付けていません。