軍都さがみはら展からの学び

2021/07/18

相模原市立博物館軍都さがみはら展に行った。

特別資料室

2021年は、1941年に周辺2町6村(上溝町・座間町・相原村・大野村・大沢村・田名村・麻溝村・新磯村)が合併し、当時国内最大面積の相模原町が誕生して80年。町誕生の契機となった陸軍施設の移転・建設、「軍都計画」といわれた土地区画整理事業、軍都計画が礎となった戦後の開発等について、関係資料をもとに紹介している。

神奈川県の主導で進められた「相模原都市建設区画整理事業」が「軍都計画」ということ。1939年5月12日に東京日日新聞主催で「相模原軍都建設座談会」が、淵野辺駅前にあった守屋旅館で開かれた。この軍都という言葉が紙面に使われ一般化したとのこと。この計画は、人口10万人の新都市を建設するもの。相模陸軍造兵廠を中心に放射・半環状道路を配し、住居地域、商業地域、工場地域に分け、学校や公園を配置する先進的な計画。いまの相模原の基礎ができあがった。

その契機にもなった陸軍士官学校の東京市ヶ谷からの移転は、八王子付近、原町田西方、富士南麓、愛知県豊橋付近の4地点に絞られ検討されたが、大部隊の演習が可能かどうか、買収による用地取得がしやすいかどうか、基礎工事が容易かどうか、天皇陛下の行幸に便利かどうかなどの理由で相模原に決定したとのこと。

相模原市立博物館展示資料

軍施設があるのに大規模な空襲が相模原にはなかった。それについては、戦後の米軍によりチキ利用状況から見て、戦後利用を考慮し、あえて空襲をしなかったとあった。

相模原は疎開の受入れも行っていた。川崎や横浜から子どもたちが来ていたようだ。学童疎開は他県に行くものも多かったが、神奈川県では県内への疎開がほとんどだったようだ。

実に興味深い展示だった。