川崎市の産業振興

2021/8/29

川崎市の産業振興は、他市に比べてとても充実している。製造業集積都市であるが故なのか、撤退された跡地活用に追われているのか、日本の工業生産性モデルが変革を余儀なくされる中で次を見据えているのか・・・。

1905年に品川-川崎-神奈川に京浜電気鉄道株式会社(現京浜急行電鉄株式会社)が開通する。1906年に横浜製糖株式会社(現:日本明治製糖株式会社)川崎工場、1908年に東京電気(株式会社東芝)の川崎工場、1909年に日米蓄音器製造株式会社(現:日本コロンビア株式会社)の川崎工場が完成した。その後、日本鋼管株式会社(現:JFEエンジニアリング株式会社)が1912年に設立された。また、富士瓦斯紡績株式会社(現:富士紡ホールディングス)の川崎工場が設立されたあたりで、京浜工業地帯の本格的スタート。

その後、日清日露戦争を挟んで、急速に京浜工業地帯の工業化を促していった。ここで、浅野総一郎がでてくる。1897年に行った欧米視察により、大型船が発着でき、大量の輸送ができる港湾整備と付随する工業用地の必要性を痛感し、着手するからものすごい。1915年に埋立が竣工すると、旭硝子、浅野造船所、日本鋼管製鉄所などの工場が新設された。1930年には、鶴見臨港鉄道が開通。主要工場はすべて引き込み線で結ばれていった。同じ年、南武鉄道も尻手、浜川崎間が完成し、臨海地区と直結した。こうして、日本有数の製造業集積都市になった。

1931年の満州事変につづく軍需景気がおこる。造船産業や鉄鋼産業、電気機械工業も好転し、自動車工業では、国産有力三社である、石川島自動車製作所、ダット自動車、東京瓦斯電工自動車が相次いで合併した。自動車工業(現:いすゞ自動車)が1937年に設立し、日本産業は横浜の埋立地に日産自動車を設立し、ダットサンの量産にのりだした。旭硝子、日清製粉、麒麟麦酒、森永製菓なども工場を新設した。

1935年頃から南武鉄道に沿った工業建設が盛んになる。当初から貨物輸送を重視し、駅が町外れにあったため、駅近くに安価な広い農地が広がっていたことが理由のようだ(神奈川県の百年)。新工場の中心は電機及び航空機関係であった。東芝、日本電気などが軍需産業比率を高めていった。

終戦後、中断されていた臨海部の埋立が再開された。そこに通産省の石油化学育成計画にもとづいて、石油化学コンビナートが形成された。日本石油化学、旭ダウ、日本触媒化学、古河化学、日本ゼオン、旭硝子など。

近年、これら大手企業の生産部門の地方及び海外への移転に伴って、都市型工業地域の特徴を活かした試作開発や商品開発を担う知識集約型、高付加価値型の産業構造への転換も進んでいる。

それらをつなぐ産業拠点として、これだけの整備が進む。

名称場所内容
川崎市マイコンシティエレクトロニクス・情報・通信関連産業等の集積を目指した国際的な研究開発拠点
明治大学地域産学連携研究センター明治大学の技術シーズ・知的資源を有効活用し、新技術・新事業の創出、地域中小企業の育成等を行う地域連携の交流促進拠点
KSP(かながわサイエンスパーク)池貝鉄工所の工場跡地日本初の都市型サイエンスパークであり、規模は日本最大級
Think(テクノハブイノベーション川崎)JFE内JFEグループの既存研究開発施設を活用して、新事業の創出、新聞屋への進出支援や産学連携共同研究の実現を目指すサイエンスパーク
殿町地区キングスカイフロントいすゞ自動車の川崎工場の跡地羽田空港の対岸に位置する殿町3丁目を中心としたライフサイエンス分野の研究開発拠点。
新川崎・創造のもり新鶴見操車場の跡地産官学連携による新産業の創出を目指す先端技術の集積拠点(京浜臨海部ライフイノベーション国際戦略総合特区に追加)
K2タウンキャンパス 慶應義塾大学の先導的研究施設(2000年開設)
KBIC本館 ベンチャー支援のインキュベーション施設(2003年開設)
NANOBIC ナノ・マイクロ産学官共同研究施設(2012年開設)
AIRBIC 産学交流・研究開発施設
参考:新川崎・創造の森(川崎市)
AIRBIC

現場を視察してみると、各施設には、大手企業の研究者やベンチャー企業、大学の研究者が活発に活動している。また、コーディネータも複数いて、つなぐ力を発揮している。日本の工業生産力モデルからの激変の中で、その中心である「川崎」はどう変化していくのか?

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